国立国会図書館デジタルコレクションで資料を閲覧。地元に住んでいた頃はこのような資料に簡単にアクセスできなかったが(地元の図書館で探せばあったかもしれないが、おそらく禁帯出となっていてゆっくりは閲覧できなかったと思われる。)、お手軽にネットで閲覧できるようになったのは良い時代だ。
当時、最も身近なダムの一つであるが、そもそも、建設省直轄のダムというスゴさをあまり理解しておらず。デジタルライブラリーにて改めて資料を閲覧して気づいたポイントを書き起こしておく。書き起こそうと思ったらいろいろ派生して結局調べてしまったこともあるので合わせて記録。
小渋ダム工事誌・図面集・写真集
小渋ダム工事誌
建設省中部地方建設局小渋ダム工事事務所
1969年(昭和44年)4月
info:ndljp/pid/12650162
小渋ダム図面集
建設省中部地方建設局小渋ダム工事事務所
1969年(昭和44年)4月
info:ndljp/pid/13141258
小渋ダム写真集
建設省中部地方建設局小渋ダム工事事務所
1969年(昭和44年)4月
info:ndljp/pid/12701737
小渋ダムの竣工の年に発刊された非売品の資料。同時期に3点セットで発刊されたようだ。
このうち、小渋ダム写真集については、国土交通省中部地方整備局のWeb上にもあり(2026年4月現在)、クグるとひっかかるのて、そちらから閲覧も可能。
基本的には工事誌をパラパラと読み進めていった。
ダムの命名ルールへの指摘(まえがき)
冒頭のまえがきでいきなり小渋ダムは命名ルールに基づいて無く、誤った命名になっていると指摘があり興味深い。予備調査段階では「生田ダム」(生田は長野県松川町の地名。現在でもダム管理事務所の所在地)としており、水没地からけしからんといわれて変えたのだが、本来は「小渋川ダム」とすべきだったとの指摘。小渋という地名がないからだそうだが。
まぁ、命名ルールが明文化されていなかっただけじゃないかとも感じる。
用地取得交渉(まえがき)
まえがきにはさらに、用地取得交渉の困難が書かれている。交渉が大変だったというのはそうなのだろうが、具体的な地主の個人名を難物よばわりで記述しているのが当時の状況を反映している。いまこのような記載をしたら個人情報観点でかなり炎上するようなものだが。。。最も、この工事誌が省内関係者のみに出回ることのみを想定して書いたのかもしれないが。
ここに限らず、チラホラ一般の個人名が出てくる箇所あり。
資材運搬経路と水没路線の付け替え
資材の運搬は国鉄飯田線を利用する計画で立案されたが、着駅をどこにするかという検討経緯も記載があった。
最寄りは伊那大島駅か上片桐駅だが、前者は側線を設けるスペースがなく、上片桐駅が選定された。もともと、上片桐駅には町営の専用側線の計画があり(近年まで太平洋セメントのヤードがあったが、小渋ダム由来でもあったのか)それも選定に寄与したようだ。ただし、上片桐駅から現在の国道153号線までの経路は既存の道路だと途中に踏切が2箇所あったことから支障があるということで、別線を新規で造ることになった模様。
このあたり、地理院地図でおさらい。
赤丸が既設の踏切であり、長野県道上片桐停車場鶴部線にあたる。
青線がこのときに新規で造られたと思われる別線であり、現在の松川町道15号大栢大高日線。確かに飯田線と交差しないように線形が引かれていることがわかる。
【地理院タイルを加工して作成】※スマホブラウザ経由だと正常に表示されないみたいです
工事用道路の隧道(トンネル)は原則無巻き(=素掘り)で、必要に応じて吹き付けという仕様。
小渋川沿いは、36災害の影響で付け替え道路の現況調査が難しいとか、災害復旧と改良を合併して実施するといったなかなか生々しい内容であった。
松川町道100号線
小渋ダムの左岸側(管理事務所側)には、堤頂経由でしか行けないと認識していたがそれも違っていることがわかった。もともと小渋川を渡る感じで松川町道100号線というのがあり、左岸側の2軒の集落に行くための道となっていた。こちらも付け替え対象の町道になっていたとのこと。
この付け替え仕様も絶妙で、自動2輪車の運行が可能であるように縦断勾配(最急25%)および曲線(最小半径3.0m)、幅員1.5mとされたようだ。当時としてはこれで良かったのか…。しかも、以前から小渋タムの堤頂は関係者以外の車両の通行は禁止だったと思うが、かつては住民の自動2輪車は通行できたということなのか、なかなか謎である。
なお、地理院地図を参照すると、確かに2014年の航空写真にそれらしい家屋が存在するのがわかるのと、管理事務所脇の殉職者慰霊碑の脇から伸びる狭い道が存在することにはなっている。
この路線、現在は松川町道148号線として存在している。
四徳大橋のカルマン渦
ダム建設による路線付け替えにより、小渋川沿いでも特徴的なトラスドランガー形式の四徳大橋が建設された。この工事についても多くのページが割かれている。鋼材は三菱重工の神戸工場で製作され、飯田線経由で運搬されたということ。
架橋後、実際に風で揺れることが判明したのと、一部の鋼材にクラックが発生して早期に対処が必要になってようでその経緯も記されている。結果、いまも四徳大橋には、鋼材にワイヤーが巻かれているのが確認できるが、これは鋼材の補強ということではなく振動の原因となっている鋼材周辺のカルマン渦を乱すための措置であり、当時の風洞試験からこのような対策を講じたということであった。
小渋ダム工事事務所
昭和36年4月に松川町新井の公民館内に仮事務所が置かれ小渋ダム調査事務所として業務が始まり、その年に事務所が新築され、昭和37年に小渋ダム工事事務所に改組されている。興味があったのは、この松川町に新築された小渋ダム工事事務所がどこにあったか、ということであるが、工事誌関連には「松川町元大島」までの記述しか無く、具体的な場所についてはよくわからない状況。
そこで、デジタルライブラリーで諸々検索したところ、昭和43年の職員録がヒット。建設省(中部地方建設局)の項に、小渋ダム工事事務所が番地入り住所で掲載されていた。これ以前の職員録には番地の記載はなかった。
職員録 昭和43年上
大蔵省印刷局
info:ndljp/pid/3025175
こちらの番地で検索すると、現在の国道153号線沿いのカーディーラーがヒット。当時は国道153号線は開通前。
本当にここなのか?ということで、地理院地図の過去の航空写真と見比べる。
四角で囲った範囲を注目。こちらが小渋ダム工事事務所の建物とおもわれる。地図・空中写真撮影サービスによると1965年(昭和40年)10月の撮影とのこと。
「1961年~1969年」の左側にある目のマークを押すと最新の航空写真に切り替わるが、まさしくここであることがわかった。
【地理院タイルを加工して作成】
なお、航空写真で閲覧するこの建物の形は前庭含めてなかなか独特であるが、この建物の写真は小渋ダム写真集に収録されており、そちらに照らすとここに間違いはなさそうに思われる。

さらに近所をストリートビューで探索すると、古い車庫のようなものがあるのに気がつく。もしやと思って改めて航空写真を見ると、敷地西側の長細い建物(上記写真の右端の建物)は位置がぴったりで現存していることがわかり、小渋ダム工事事務所由来の建物であるようだ。小渋ダム図面集からたどると車庫のようである。いまでも痕跡が残っているのが興味深い。
管理用宿舎
小渋ダムの運用開始後、関係の職員や家族が居住するための管理用宿舎が松川町元大島の宗源原に建設された。その建設経緯と宿舎の図面も図面集に載っている。
実はここには小学校時代に同級生が住んでいたのでちょくちょく遊びに行かせてもらっており、非常に親近感のある場所。今回、この工事誌と図面集を閲覧して、一番身近に感じた項目である。当時、何度かお邪魔して、最先端のゲーム機であるPCエンジンで桃鉄をやらせてもらった記憶。確か名古屋から転校してきて何年か経ったあとまた転校してしまっていた。お父様が建設省の職員であり、異動に伴ってということだったのだと思う。彼も鉄で、名古屋でとった電車の写真をか見せてもらったのも思い出す。今思えば、かなり近代的な造りをしており、宿舎エリアの中央にはテニスコートがあった。国家公務員の福利厚生はすごかったんだな、と今となっては思うものだ。
ストリートビューで確認したところ、現在では廃墟化してしまっているようではあり、2011年(平成23年)12月の国家公務員宿舎の削減計画に基づいて廃止対象となった模様。ただし現在は松川町の移住促進住宅として一部活用されているようである。
宿舎には無線設備や合宿所なども併設されており、建設省の強力なパワーをもったエリアだったのだと今になっては感じるところ。しかしながら当時は田舎の街の一角にもすぎなかった、ということでもある。工事誌の写真にあるように脇にはのどかな桑畑があった時代。
竣工式
小渋ダムの湛水は1968年(昭和43年)7月25日、その後前述の事務所が1969年(昭和44年)1月16日に移転をし、5月13日に竣工式を迎えた。そのときの写真が小渋ダム写真集に掲載されている。ちなみにこの日は火曜日・大安という日取り。
おそらく現地でのテープカットや神事、記念植樹が行われた後、場所を移動して祝賀会が開催されたのだろう。建設大臣や長野県知事以下が出席していたもよう。


この祝賀会の会場は松川町立松川中央小学校の体育館だったようで、内部の写真からまるで運動会のような万国旗が飾られている。国のプロジェクトなのに何故万国旗なのかはよくわからないがお祭り気分は演出されている。出席者もかなり多かったことがみてとれ、当時、大人数を集められる場所がこの小学校の体育館くらいしかなかったのかもしれない。テーブルの上にはビール瓶が並んでいるようにも見える。
これも知りたい
今回の文献を読んでなおわからなかったこと
- 小渋ダムのクレストゲート5門(非常用洪水吐)からの放流試験は行われていたかどうか(行われていたのであれば写真が残っていそう&写真が見たい)
- 小渋ダム管理事務所(現 天竜川統合ダム管理事務所)の住所が中川村になっている経緯
こちらについてはまた機会があれば調べてみたいと思う。